アリとキリギリス
たくさんのすごい話と、すごいことをしているすごい人たちと話す機会があって
アリとキリギリスについて考えることがあったので書いてみる。
きっかけは色々あった。常に高い、正しいモチベーションを
持ち合わせていたわけではない。
今でもそうだ、何事に対してもその中で頂点を取ろうとか
有名になりたいとか、そういう強い志を持ち合わせているわけではない。
選択の連続が、奇跡的に、高いモチベーションを持ち合わす人たちと
出会うことができた現在に繋がっている。
もちろん、ある地点では自分の限界を越えてやろうと挑戦したこともあった。
選択の連続が世界を生んだが、自分の手で何かを切り開いてきたことではない。
一歩を踏み出すチャンスはあった、しかし現実はそう簡単に選択できることはない。
覚悟を産むのは自信だ。自信を産むのは何だ?自信を産むものは行動だ。
先人たちは常に自分に挑戦し続けた人だ。アリはキリギリスを意識したことはない。
アリは常に最善を選択し、目標を持ち、その目標にチャレンジし続けてきた結果だ。
キリギリスの結末は飢えて死ぬことだ。当然の結果だ。
何もせずに何かを得ることはそう簡単なことではない。
私はキリギリスだ。私を特定できるものは何もない。
先人たちは常に未来を見せてくれる。先人たちは常にチャレンジした結果を
我々に教えてくれる。世界は常に開かれていると教えてくれる。
生まれた時から閉ざされた世界に生まれた人もいる。
環境が閉ざされた世界だ。
人間は環境によって影響される、毎日が映画のような素晴らしい日々ではない。
目を背けたくなるような現実が今日も目の前にぶら下がっている。
先人たちは常にチャレンジをし続けてきたからあの世界があり、
これからもきっと辿り着くことはできないだろう。
キリギリスの結末は飢えて死ぬことだ。当然の結果だ。
自分の置かれた環境が、妥協の連続しかなかったんだ。
そういう人が周りにいたら気付けたのかもしれない。しかしもう遅い。
仕方ない結果だ。目を背けたくなるような現実が
今日も目の前にぶら下がっているからだ。
環境の違いだ。仕方ない。仕方のないことなんだ。
どこかのタイミングで気付けていれば、何か突き抜けたものがありさえすれば
今いる世界は違うだろう。
私もアリの世界にいたのかもしれない。しかし現実は違う。
始めるのが遅かったんだ。自分が置かれた環境が
妥協の連続を選択してきた人間しかいなかったんだ。仕方のない結果だ。
私はキリギリスだ。私を特定できるものは何もない。
キリギリスの結末は飢えて死ぬことだ。当然の結果だ。
キリギリスが動き出すのはアリが動くよりも大変なことだ。
妥協の連続に慣れきった身体が鉛のように身動きを妨げるから。
キリギリスが動き出すのはアリが動くよりも大変なことだ。
目標なんてものを持ったこともなければ、達成した経験もない。
環境さえ違えば、別の道があったのかもしれない。
私はキリギリスの中で生まれてキリギリスのように死んでいく。
力があれば、経験があれば、知識が、体験があれば。
人間はいつか死ぬ。キリギリスはアリにはなれない。
私はキリギリスだ。キリギリスの結末は飢えて死ぬことだ。
当然の結果だ。
言い分はわかった。キリギリスはアリにはなれない。
環境が悪かった。周りの人間が悪かった。そうだろう。
結局お前はキリギリスとして何も行動をせず、
困難を受け入れるわけでもなく、目の前の現実に目を背け
誰に喜ばれるわけでもなく死んでいくんだ。